ぺろりんちょの村長日誌

犬と猫と畑を愛する村長は、愉快な村人を募集中です。

農家が食べものを作ってるから偉いとは、僕は思わない。

今日、ちょうど近所のおばあちゃんと話していてふと思うろころがありまして。

帰ってツイッターを見たら、フォロワーさんが似たようなことをおっしゃっていたので、

この機会に少し書いてみようと思います。

外からの評価

僕自身、農業で生計を立てるようになって早5年というところなのですが、周りからよく言われることがあります。

「若いのに農業して偉いね」

「食べ物作ってくれるから農家さんには感謝しないといけんね」

こういう感じのこと、たぶん、同じ年齢層の農家さんならみんな言われてると思うんですよ。

社交辞令というのもわかります。自分自身、食べ物を作っているんだから妥協してはいけない部分があるという自負心もあります。

重労働でなりての少なくなってきている産業をになってくれることに対する謝意なんだというのもわかります。

でもね、若いうちに就農したから偉いとは思ったことないですし、感謝されてしかるべきとも思ってないんですよ。

僕にとっては、農業というのはたぶん自分に一番マッチする、自分にとっては最高に素晴らしい、『普通の仕事』なんだと思うんです。

職業に貴賎なし

こういう話題を、以前生放送でしていた際、毎回必ず、(ぷよぷよ大好きお兄さん)リスナーさんが言ってくれていた言葉です。

実際、僕らは毎日、誰かの作ったものを食べ、誰かの作った服を着て、誰かの作った道を歩いて、仕事をして生きてるんですね。

どこか一つの仕事が欠けたらもはや、今の当たり前の生活というのは成り立たないんです。狩猟採集の生活なら話は別ですが。

こと、農業に絞ってみても、僕らが生産した野菜を、運送してくれる人、お店に並べ手販売したり、調理してくれる人、そしてそれらにお金を払って食べてくれる人がいて初めて、この仕事は成り立ってるんです。

もっとさかのぼって考えれば、生産のために必要な肥料や資材、道具などほぼすべて、誰かの「仕事」の結果を使ってなりたってるんですよ。

少なくとも、野菜を家庭に届けるというプロセスにおいて、農家だけが特別な何かをしているわけではないんです。

だから、僕は、農業というのは『普通の仕事』ととらえているんです。

現代の農業の問題点とこれからの農家の自負心

せっかくの機会なので、ここからはいろいろおもうところを書いていこうと思います。

現代の農業、とりわけ産業としての農業で押しなべて要求されるキーワードは、「中品質大量生産」です。

これは、極めて経済合理的な発想で、均質で平均的なレベルの製品を大量に作ることが大きな収益につながるという考え方です。

農協さんとのいろいろな話し合いでも、たびたび品質の高い新品種や、値段の高い時期を狙った時差での生産、新しい栽培方法などの話題が出てきます。

こういった話し合いの中で、新しいこと、に躊躇する最大の原因が先に挙げた考え方なんです。

こと農業においては、投資でいう、「巨人の肩に乗ること」が基本となっているのが現状です。業界の常識、言い換えれば、定石に従って、

品種を選び、また、時期や栽培手法を選択していく。この結果として、安定的で均質な中品質の作物を大量生産することが、

比較的容易にできるとされています。

ただ、新しいこと、について話し合う時に、頭から、「こういう確立された方法論があるから」という前提で、議論してしまうと、

結局、「ちゃんと想定した収量や品質が確保できるかわからない」とか、「実験的なことは試験場のやることで、農家のやることはお金儲け」といったような、

身もふたもないところに、落としどころが来てしまうんですね。

僕は、呼んでもらえれば時間の許す限り、すべての会議に参加してきていますが、これが本当によくないと思います。

人口増加と大量消費・モノ不足の時代

少し視点をずらして、マーケティングの視点から見てみます。

結局、例えば戦後の10~20年間のようにモノの総量が足りない、モノ不足(供給不足)の環境であれば、中品質大量生産は、いつでも正解なんだと思いますね。

モノが足りないのだから、通有性のある商品レベルさえ維持できれば、価格はちゃんと収益レベルを維持できる。

一方で、近年のように、年中どこかしらからの輸入品が手に入り、また、北海道や九州といった超大規模産地で主要な野菜の需要が年間を通してカバーできるようになった時代であれば、少し話が変わってくるんだと思うんです。

商品全体の需要量を天候不順などがない限り、年間を通して十二分に満たすことができる。この状態が今の状態なんです。

そして、この状態であれば、商品の値段は、マクロで見た全国生産量が増え続ける限り下がり続けるんです。

需要を充足している以上、流通コストや生産原価を割るところまでいくらでも価格は競って下げられていってしまいます。

また、暖冬などの豊作要因によっても容易に、かつ一気に値段が下がってしまうんです。

僕の仕事をしている和歌山では、一昔前まで、ミカン畑が1反(木で30本ほど)あれば、人ひとり暮らしていける。と言われていたそうです。

当時の話を聞くと、一反当たり200~300万円ちかい収入になったとおっしゃる方もいらっしゃいます。

今、同じ面積でどれくらいの平均売り上げがあるかといいますと、約25~30万円ですね。

約10分の一になっています。この値段の低下は、まさに、中程度の品質のものが産地を問わず全国で生産されるようになったことによるものです。

予言ではないですが、このままいけば、ほぼすべての果物や野菜が、同じ運命をたどるのが道理だと、僕は考えています。

普通のことを普通にやっていると食えなくなっていく、というのはこの仕事の本当に厳しい側面なんです。

これからの農家の自負心

僕は、僕も含めてこれからこの産業に挑もうと思う人たちにはぜひ、もっと自由にのびのびと、新しいことに挑戦してみてほしいと思うんです。

役所や普及所の就農の勧めにしたがって、ほうれん草農家になりたい。結構こういう話はされること多いんですが、

是非もっと視野を広げて、そりゃあもちろん、失敗するリスクも大きくなりますが、いろんな作物や栽培方法、もっとおいしく作る、

もっと安全に作る方法など、いろいろなことに挑んでほしいと思います。

あえて、この仕事をやっていくうえで自負心をどう持つべきかというなら、やはりつねに探求心の権化であり続けることにあるんだと思います。

良くも悪くも新しいもの、新しいことが好きで、今年より来年、今日より明日、よりおいしくてより安全な野菜をたくさん作る農家になろうと

し続けることこそが、この仕事の要になると僕は考えていますね。

農業は素晴らしい仕事です。

散々、普通の仕事だと言っておきながら、最後の最後に、真逆の見出しを付けましたね。

これは、別に何の説明もいらない、農業は素晴らしい仕事です。

他と比べてどうだとか、尊いかという話は、今はしていません。そういうのは無粋です。

自分で勉強した理論、考えたこと、仲間と自分の能力、その他もろもろのことを考えて、

種をまき、苗を植え、世話をして、作物が出来上がる。

この、畑にいっぱいの作物を収穫するときや、ばっちり狙い通りの作物が出来上がった畑を見渡す時に、

こころにあふれてくる満足感や達成感。収穫した品物を市場や周辺の人たちから、正しく評価してもらった時の充実感。

きちんと育ってくれた植物たちへの愛情や感謝。この気持ちは、ほかの何物にも代えがたい気持ちがあります。

正直、すべての人類に一度は味わってほしい最高の気持ちだと僕は思っています。

僕はこの仕事に就く前、ほかの仕事もやってきてますが、なかなか、これほど大きなカタルシスはないですね。

農業は素晴らしい仕事です。